聖火の子として生まれて
1964年(昭和39年)10月5日、橋本聖子は北海道勇払郡早来町(現・安平町)の酪農家に、4人姉弟の末っ子として生まれました。その5日後、東京の国立競技場で東京オリンピックの開会式が開かれます。牧場を営む父・善吉さんは会場に足を運び、青空へ燃え上がる聖火に胸を打たれました。そして、生まれたばかりの娘を、その炎にちなんで「聖子」と名づけたのです。
父が40歳、母が37歳のときの子で、すぐ上の兄とは10歳離れています。実家は農業のかたわら、牛や競走馬を育てる牧場を営んでいました。兄姉とは年が離れた末っ子でしたが、甘やかされて育ったわけではありません。「聖子を絶対にオリンピック選手に育てる」という父の決意のもと、むしろ兄弟の誰よりも厳しく育てられたといいます。
3歳のころ、牧場の池が冬になると凍り、そこで遊ぶうちにスケートに夢中になっていました。父は「お前はオリンピックに出るために生まれてきた」と言い聞かせて育てたといいます。オリンピックが何かも分からないまま「聖子はオリンピック選手になる!」と口にして、両親を喜ばせていたそうです。
その言葉が本人の意志に変わったのは、小学2年生のとき。1972年の札幌冬季オリンピックで日本選手の活躍を見て、「私はスケートでオリンピックに出る」と自分で決めました。そこからスポーツ少年団に入り、競技として本格的に歩み始めます。のちに彼女は、その一本道をこう振り返っています。
「オリンピックの選手にするためにこの名前にしたと言われて育ちました。人生の選択肢は、それしかなかった。でも、選択肢がそれだけだったというのは、非常に良かったと思っています。」
逆境が教えてくれたこと
順風満帆に見えた道のりには、大きな試練がありました。スケートを本格的に始めて1年も経たない小学3年生のとき、橋本は腎臓病を発症します。2か月の入院と、2年間の運動禁止。おやつはもちろん塩分も断たれ、毎日味のない食事を口に運ぶ日々でした。その病室で、同じように重い病と闘う同年代の少女と親友になりました。少女はいつも、橋本が病室を出るとき、笑顔で見送ってくれたそうです。
ある日、その子は突然この世を去りました。「あの子は、いつ最後になってもいいように、いつも笑顔でいたんだよ」——そう聞かされたとき、幼い橋本の人生観は大きく変わりました。「世の中には自分よりもっと大変な人がいる。私はまだ恵まれているんだ」。亡くなった友達の分まで生きよう、と思えたといいます。のちに彼女は、トップアスリートに欠かせない食事と水分の節制、限界を超えるトレーニングに耐える精神力も、この時期に培われたと振り返っています。
運動を再開できたのは6年生。用心しながらの再スタートで、本格的なトレーニングに戻れたのは中学2年生からでした。
試練は続きます。高校3年のとき、重圧が重なるなかで体調を崩し、腎臓病の兆候が再び現れて入院。追い打ちをかけたのが、自発的に呼吸ができなくなる「呼吸筋不全症」でした。代表権が確実に見えていた矢先の入院はあまりに衝撃で、ストレスから呼吸困難に陥り、4日間の昏睡状態に。さらに入院中にB型肝炎にも感染し、医師からは「もうスポーツはできない」とまで告げられました。世界を狙うアスリートの身体に、病が立ちはだかった瞬間です。
そこまで来て、逆に開き直れたと橋本は語ります。「今さらあがいても病気が完治するわけではない。だったら病も自分の一部として、共に生きるしかない」。肺活量は半分以下に落ち込んでいました。それでも彼女は、少ない肺活量を最大限に生かす練習方法へと切り替え、1年半後のオリンピックに間に合わせます。退院後まもなく全日本選手権で4種目を完全制覇してみせたのも、この時期のことでした。
ここで見落としてはならないのは、橋本にとって病が、単に「乗り越えた過去」ではなかったということです。彼女はこう語っています——「病気をしたことによって、辛いことに耐えられるようになった」。限界を知るほどの痛みが、人一倍の努力に耐える力へと変わっていった。メダリストの強さは、病室から始まっていたのです。
健康なままだったら、苦しい思いをしてまで、7回も五輪に出ようとは考えなかったと思います。
腎臓病も呼吸筋の障害も、実は今なお抱えたままです。決して体格に恵まれた選手ではありませんでした。それでも、体のハンディを越えるために工夫を重ねるうちに「もっと上を目指したい」という目標が生まれ、限界への挑戦が7回のオリンピック出場につながった——本人はそう捉えています。
二つの夢、七つの舞台
橋本聖子が世界を驚かせたのは、その挑戦のスケールでした。スピードスケートで冬季オリンピックに4回、自転車競技で夏季オリンピックに3回——夏と冬をあわせて通算7回の出場は、女子として世界最多の記録です。憧れは、スケートでも自転車でも活躍したアメリカの名選手エリック・ハイデン。「私もあんなふうになりたい」という夢が、二刀流の原動力でした。
中学3年生で全日本ジュニア選手権500mを制し、高校1年生からは世界選手権へ。そこで世界のレベルの高さを目の当たりにしたことが、大きな刺激になりました。強い外国選手がどんなトレーニングをしているのかを間近で見て、視野が広がったのです。日本一はすでに手にしていました。“次は世界を制する”——新たな目標に、心が躍ったといいます。
もっとも、19歳で迎えた初めてのオリンピック・サラエボ大会では、入賞には届きませんでした。そこから一歩ずつ、世界のトップへ近づいていきます。1988年には、カルガリーの冬とソウルの夏、同じ年に別々の競技で五輪に出場するという離れ業も成し遂げます。そして迎えた1992年アルベールビル。女子スピードスケート1500mで、彼女は銅メダルを獲得しました。日本人女性として、冬季オリンピック史上初のメダルでした。
「最後の1周は、真っ白でした。滑り終えたら脚がどうにもならなくて、立っていられなかった。」
― 1992年アルベールビル、銅メダル獲得の瞬間を振り返って
その姿を見たあるスポーツジャーナリストは、橋本を「努力の天才」と評しました。誰にも真似のできない「努力する才能」を、彼女は研ぎ澄ましていったのです。
「選手を支える側」へ
1995年、橋本聖子は参議院議員に初当選します。トップアスリートが政治の世界へ——その転身の根っこにあったのは、出世でも名声でもなく、後輩たちへの思いでした。
実は、これは「引退後の転身」ではありませんでした。当選の翌年、1996年のアトランタオリンピックに自転車競技で出場——現役選手でありながら国会議員という、日本初の「選手兼政治家」です。出馬要請を受けたとき、衆議院議員だった義兄にも相談し、「夏なら例年、国会は閉会している。両方やれないことはない」と判断しました。もちろん政治活動に一切支障をきたさない覚悟が要ります。それでも——病気で生死をさまよった経験に比べたら、それ以上に辛いことはない。そう思えたといいます。
「アスリートは、自分のことだけを考えて競技に集中してくれればいい。そのためのサポート体制を作るのが、私の務めです。」
現役時代、彼女はこんな問題意識を抱いていました。「スポーツは生活の一部であり、経済や社会の営みでもあるはずなのに、当時は政治とスポーツを切り離そうとする意識が強かった。でも実際は、両者は共同体なのです」。自らが極めた世界を、内側から良くしていく——アスリートの視点を持つ政治家として、橋本はスポーツ立国や健康づくりを政策の柱に据えていきます。
アトランタで「政治家の目」から見たオリンピックは、山ほどの課題を突きつけました。世界に比べて日本のスポーツ環境は整っていない。メダルを目指す選手を国がどう支えるのか。スポーツを広め、健康で文化的な環境を整えるのは政治の仕事ではないか。持ち帰ったその課題が、のちの「ナショナルトレーニングセンター」設立につながります。今ではトップアスリートだけでなく、優秀な指導者もここから育っています。
この経験は私にとって宝物であり、政治家としての原点です。
「初めての壁」を破る
橋本聖子の経歴には、いくつもの但し書きがついてきます。参議院議員として結婚した初めての女性。そして、出産した初めての参議院議員(衆議院議員を含めても、50年ぶり2人目のことでした)。
約30年前の政治の世界は、男性社会そのものでした。時代は女性活躍や少子化対策の必要性を叫んでいるのに、一部の政治家からは「出産するなら議員はやめろ」と言われ、本人も悩んだといいます。それでも、答えは思いのほか簡単に出ました。
「現職の国会議員が出産のために国会を欠席する歴史は、ここから始まるのだ。誰かがやらないと始まらないなら、私が先陣を切ろう。」
両立の日々は、決して楽ではありませんでした。産後1週間で復帰し、議員事務所にベビーサークルを置いて、議会の合間にわが子の世話へ走る毎日。2人目、3人目のころには産休制度も整ってきましたが、外せない仕事があれば子どもたち全員を連れて現場に駆けつけることもありました。
いくつもの「初めての壁」を破ってきた自分だからこそ、この役割が回ってきたのだ——本人は今もそう受け止めています。3人の子どもたちもスポーツに親しみながら育ちました。競技を通して味わった悔しさや挫折が、きっと将来の役に立つ——母としての願いは、そこにあります。
今、そしてこれから
2019年、橋本は東京オリンピック・パラリンピック担当大臣に就任。2021年には、東京2020大会組織委員会の会長として、コロナ禍という前例のない困難のなかで大会を導きました。そして2025年、日本オリンピック委員会(JOC)の会長に就任します。JOC史上初の女性会長の誕生でした。同年10月には広島・呉市で講演に立つなど、全国でスポーツの価値を語り続けています。
彼女がとりわけ大切にしているのが、パラリンピックが指し示す社会の姿です。
「パラリンピックには、国がやるべき政策課題が、すべて詰まっています。」
障がいのある人もない人も、自然に交わり、支え合う。選手村で当たり前に生まれていたその光景こそ、日本がめざすべき共生社会だと橋本は語ります。
もうひとつの柱が、「健康寿命の延伸」です。ナショナルトレーニングセンターは、隣接する国立スポーツ科学センターと連携し、そこで蓄積された「スポーツ情報・医・科学」を地域医療や地域社会へ還元することをめざしています。トップアスリートのために磨かれた知見を、まちの人の健康に返す——人生100年時代における、最大のテーマへの答えのひとつです。
そして本人が繰り返し説くのは、大げさな努力ではなく「楽しみを見つけて元気になること」。テレビでスポーツ選手を応援するだけでも腕や足に力が入り、気持ちが高揚する。趣味を持つ、地域のコミュニティーに参加する、天気のいい日は散歩する。小さな目標をコツコツ続けることで、体力は確実についていきます。
人間力なくして、競技力の向上なし。
世界に通じるアスリートを一人でも多く発掘し、育てたい。それがすなわち国の礎になる——スポーツを通じて人の心を育て、まちを健やかにする「聖火の子」の挑戦は、まだ続いています。